大正12年(1923年)関東大震災があったその年に、震源地からはるか彼方、
鹿児島県に属する小さな離島にてその男はこの世に生を受けた。
その男の出生について詳細を語れる者はいない。
わかっているのは、彼の傍らにはいつも母しかいなかったということだけ。
妾の子だという話もある。
とにかく彼は、父は誰なのか、どんな人か、兄弟姉妹はいるのか、知ることもないまま
ひっそりと小さな南の島で、幼少期を過ごした。
そもそも望まれて生まれてきた子だったのだろうか。
彼の薄い瞳や南国出身者に相応しくない真っ白な肌、彫りの深い整った顔立ちは混血独特のような感を受ける。
出世の秘密が明かされない理由はここにもあるのだろうか?
彼の唯一の肉親であり出生の詳細を知る母親は、彼が結婚して間もなく亡くなった。
臨終間際、母親は、彼の妻となった若い娘に
「この子とだけは別れんといて下さい!」
と身寄りのない彼の境遇を心配して、そればかりを涙を流しながら繰り返し懇願していたという。
彼の妻は、彼と何かあるたびにこの懇願を思い出し自らを奮い立たせたと回想している。
この最期の懇願からしても、この時代に閉鎖的な島で、彼はどういう視線の中で育ってきたのか容易に想像することができる。肩身の狭い思いを随分味わったのではないか。
時は経て昭和37年。世は高度成長期を迎えていた。
彼は、職を求めて生まれ育った島を去る決意をする。既に3人の子宝に恵まれていた。
移住先は大阪府。
小学生になっていた3人の子供達はこのとき初めて島から海を渡ったのだそうだ。
生活のために、慣れない都会暮らしへ。かなりの苦労を味わったと聞く。
それでもしっかり3人の子を育て上げ、自らの父が果たしていない父の役割を
担いきったのだった。
晩年は子供たちからプレゼントされたマンションで、平凡ながらも
穏やかな暮らしを手に入れた。
自室から見渡せる生駒山脈を眺めながら、彼は自分の生涯をどう思っていただろう。
彼は本土移住後、島を訪れたのはたったの1回だった。
帰りたくなかったのか、帰ることができなかったのか。
もともと物静かな彼は、生涯自分の出生について何一つ子や孫に述べることはなかった。
そして、私たちも何も聞かなかった。
なぜなら、彼は盆や正月に子供や孫が集まれば彼はすぐさま涙をにじませた。
酒が進めば
「こんなにたくさん家族がいる」
といった内容をつぶやき、号泣した。
孫である私が、新しく家族になった夫を紹介しに訪問したときも
声を詰まらせ涙が止まらなくなった。
そんな姿をみて、何を聞けるというのか。
幸い、晩年はいつでも近くに子供や孫がいる賑やかな環境で、臨終も子や妻に見守られながらとなった。幼少時代に寂しい思いをした分は、この辺りで少しは
取り返せただろうか。
平成20年9月12日、寡黙な祖父らしく、静かに人生の幕を下ろした。
今日は祖父を偲んで、生きた証を残しておきたくて書かせて頂きました。
明日はお葬式です。
もちろんみんな集まって祖父を見送ります!
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